平川 樹高 -Hirakawa Jukou-
師範紹介
1950年宮崎県都城市にて生まれる。高校一年の時に糸東流を始める。その後一年たらずで第一回県高校空手大会、組手個人の部において準優勝、その他受賞多数。
高校卒業後、全日本空手道連盟糸東会へ入門。当時会長であった岩田万蔵先生に師事し住み込みで内弟子となり糸東会支部にて空手指導に携わる。
その後、放浪の旅の末に1976年、渡口政吉氏に出会い尚礼館東京総本部にて弟子入りし指導を受ける。沖縄女性と結婚し5年間の東京での修行を終え。宮崎へ帰郷し都城支部を開設する。
度重なる渡口先生の海外演武の度に同行し型や分解組手の際には相手をこなし晩年まで師事。
晩年の渡口先生は、師である宮城長順先生の意志の元未完だった剛柔流空手を再構築しその集大成ともいえる指導体系を確立した。
渡口先生の死後は、その指導体系を元に沖縄の文化としての空手を世界に伝え広げる為に宮崎県都城市を拠点とし日本、沖縄をはじめ海外の弟子へも指導を行う。
沖縄剛柔流空手 尚禮館 5段
曹洞宗(禅宗) 得度
一般社団法人藤元メディカルシステム 大悟病院 座禅指導 35年
月刊秘伝 11月号 特設ページ公開中
こちらは、今回月刊秘伝の平川師範の特集記事掲載に伴い、尚禮舘空手の特色、渡口政吉先生、平川樹高師範の事柄を紹介いたします。
後書き
師範 平川樹高は、1976年から23年間、渡口先生が亡くなるまで空手の指導を受け心技、その人間性共に認められた弟子です。
渡口先生が結婚式の仲人をして頂きその後も家族ぐるみの付き合いをし長年の間、信頼関係を築きました。 渡口先生の他界した後は、奥様の希望で師の法事の導師を3回務めました。
今まで本来の空手と禅の心を人生に活かす為そして師である渡口政吉先生の背中を見習い空手一筋52年、生涯現役を貫いています
平川 樹高師範の歩み
出生から東京時代まで | |
昭和25年 | 宮崎県都城市にて父 宜也の長男として出生 |
昭和39年 | 16才高校入学と同時に東洋大学空手部出身東勝美6段(糸東流)に師事、糸東流空手を始める |
高校二年生の時、第1回県高校空手大会、組手個人戦の部において準優勝、その他多数。 | |
昭和42年 | 高校卒業と同時に全日本空手道連盟糸東会、会長岩田万蔵先生の内弟子となる(岩田先生、糸東流開祖、摩文仁賢和先生の高弟) |
昭和43年 | 糸東会支部にて空手指導 |
昭和44年 | 空手の師を求めて放浪、この間、松涛館空手、日本空手協会、剛柔会、尚礼館の空手に入門、稽古する。 |
東京での修行時代 | |
昭和51年 | 東京に在住の渡口政吉先生の事を人づてに聞き弟子入りをめざし上京。 |
昭和51年11月 | 渡口政吉先生に会い、尚礼館東京総本部に入門先生の弟子となり指導を受ける。 |
昭和52年8月 | 毎年夏、沖縄に帰られる渡口先生を追いかけて沖縄総本部に稽古に行く。 |
尚礼館九州地区本部開設10周年記念大会に沖縄総本部として先生の息子さんと出場、型、撃破第1型と分解組手、息子さんと基礎組手5段を演武。 | |
昭和53年 | 毎年、海外から他流派及び、同門の門弟の方が渡口先生に指導を受けに来日、その中でオランダから来た某有名なフルコンタクト空手の先生の弟子、技は尚礼館にて稽古、初めてフルコンタクトとの組手を経験する。 |
昭和54年 | 渡口先生ご夫妻媒酌にて、沖縄の女性(先生の弟子)と尚礼館東京道場で結婚式を挙げる。 |
支部道場開設と海外演武 | |
昭和56年 | 郷里都城に道場開設の為帰る。 8月尚礼館都城支部開設。 |
昭和58年 | 宮城長順先生慰霊三十周年顕彰会、尚礼館創立三十周年記念演武大会に弟子を連れて参加、鶴破第1の型、演武。 |
昭和62年 | 尚礼会国際親善空手大会に門弟と参加 |
平成元年 | オーストラリア、シドニー大学で開かれた環太平洋の文化を紹介する学会での沖縄の文化紹介で渡口先生と演武、シドニー空手連盟と交流。 |
平成2年 | カナダバンクーバーで開かれたカナダ尚礼館二十周年演武大会に門弟と参加。 |
平成5年 | 門弟を連れてカナダ、アメリカ、空手指導 現在まで海外指導多数。 |
平成10年 | 渡口政吉先生の没後、道場で催された先生の一年忌、三年忌、七年忌の法要の導師を務める。 |
尚禮館に生きる想い 尚礼館と尚禮館
戦前戦後を通じて東恩納寛量先生の弟子、剛柔流開祖宮城長順と比嘉世幸の両先生に師事した尚禮舘舘長渡口政吉先生。
恩師宮城先生の構想を実現され尚禮舘指導体系は生まれました。
その後に沖縄のコザで尚禮舘を名乗り優秀な弟子を育て世界に広める為に上京しました。
私が東京で渡口先生の弟子になり43年来教えを守り普及活動しています。
渡口先生が亡くなった年に私は「尚礼会」の組織から離れました。そして渡口先生の奥様から正式に許可を頂き原点回帰の願いを込めて沖縄当時の「尚禮舘」の名に戻しました。それは、先生が伝えたかった沖縄の文化としての空手と道としての空手 さらに宮城長順先生から渡口先生に伝わった本来の剛柔流を守り研鑽しながら尚禮舘発祥の地沖縄に返そうという思いからでした。
その様な流れの中で現在「尚禮舘」の名で活動しています。
「尚禮舘」の名は「渡口政吉」自身であり一流派にも等しいと私は思っています。
先人達から脈々と受け継がれてきた剛柔流の空手を大事にして後世に残していきたいと思います。
尚禮舘 平川 樹高