月刊秘伝11月号特設ページ公開中
尚禮舘をさらにご理解いただけると思います。どうぞご覧ください。
渡口 政吉の歩み
初代尚禮館館長、渡口政吉先生の両親が剛柔流開祖の宮城長順先生と実懇の間柄であった関係で中学に入学すると剛柔流の門をたたき最初は比嘉世幸先生から学びその後は、宮城長順先生に学ばれ戦前、戦後を通じて両先生の亡くなられるまで教えを受けました 。
昭和22年 | 戦後初めてとなる道場を糸満で比嘉世幸先生と二人で始める(剛柔流研究所) |
昭和23年 | 糸満地区体育修練会、空手の部、師範となる。 |
昭和27年 | 宮城長順先生を中心にした剛柔流振興会が結成され、会長、宮城長順先生、常任理事に渡口先生が就任。 |
昭和28年 | 宮城長順先生死去により、剛柔流振興会を空手道剛柔会に改称。 会長、比嘉世幸先生、副会長、渡口政吉先生。 |
昭和29年 | 宮城先生が亡くなると戦後初めてとなる個人道場、尚禮館空手研究所をコザに開設。 嘉手納基地の近くに道場がある為に米人兵士が習いに来るようになり、マリン部隊(現在の海兵隊)の指定道場となり100人中、60名は軍関係者だったと言います。 |
昭和33年 | 全沖縄体育祭で体育的に体系化された今までになかった空手を演武披露、沖縄の二大新聞が尚禮館空手を報道、沖縄空手界の注目の的となる。 沖縄では初めてとなる、胸マーク、段、級の色帯を締めさせた。 その後、各道場が昇級、昇段審査を制定し行うようになった。当時、連盟会長だった松林流の長嶺将真先生が渡口先生は沖縄空手界の偉大な人物だと絶賛されたと言う。 |
渡口先生は40代で剛柔流空手を日本本土へ普及する為に東京へ移住しました。
昭和35年 | 上京、東京代々木修練会空手道場 師範 就任。 |
昭和38年 | 東京中野区南武公会堂において、東京進出初めてとなる第一回尚禮館空手道大会開催。 |
昭和40年 | 全沖縄空手道選手権大会及び演武会(型、組手)を主催、この時、第1回高校空手道選手権大会も行われた。 |
昭和44年 | 東京都中野区弥生町に東京本部が開設。 アメリカ、ニューヨークエキスポ空手大会で演武。 |
昭和45年 | アメリカニューヨークで第1回尚禮館空手演武会、開催、渡口先生演武。 第一回、日本武道館で行われた第一回世界空手道大会において、渡口先生模範演武、型、セーパイ。 |
昭和47年 | アメリカ、カナダ、プエルトリコ、巡回指導 。 |
昭和49年 | 昭和49年、ヨーロッパ各国 アメリカ、カナダ、巡回指導。 |
昭和57年 | カナダ尚禮館十周年大会において指導演武。 |
昭和58年 | 宮城長順先生慰霊三十周年顕彰会及び尚禮館創立三十周年記念演武大会開催。 |
平成2年 | 中国の剛柔流の流祖と言われる東恩納寛量先生の師、ルールーコー先生と東恩納寛量先生の顕彰碑が中国の福建省、福州市に建立。 渡口先生が沖縄側の団長として招かれ中国武術団と交流演武。 |
平成6年 | カナダバンクーバー20周年記念演武会において演武、並び指導。 |
エピソード
ベストキッド | アメリカ空手映画(ベストキッド)の宮城は渡口先生がモデルで渡口先生が話された事を取り入れ映画となる、原案者、元アメリカ尚禮館所属。 |
大河ドラマ 琉球の風 | NHKからの依頼により主人公、子役に空手指導、沖縄尚禮館所属の少年部、出演 |
渡口 政吉先生 尚禮館空手について
又、仏教の坐禅に対し立つて行う立禅とも言われます。 琉球の誇りであった王であった尚家の「尚」と守禮の邦の「禮」を頂き、伝統と誇りを守る空手として「尚禮館」と名付けられました。
空手の修練は人の道至ると先生は空手を大事にされました。
尚禮館系譜
渡口 政吉師範の紹介
他流はとの尚禮館空手の違い
尚禮館空手の3つの特色
1、代々受け継がれる剛柔流の流れを組む独自の指導体系
尚禮館空手では、初心者からスタートして明確にステップアップできる為のカリキュラム(指導体系)があります。
2、体育的な型から古流型 そして創作方への発展
宮城長順先生が発案した指導を渡口先生が発展させ完成させました。
渡口先生が創作型「白鶴の型」そして「合掌の型」などがあります。
- 普及型 第1 第2 第3
- 撃破 第1 第2
- 鶴破 第1 第2 第3
- 白鶴の型
- 合掌の型
- 分解組手
- 基礎組手(初段から十段)
- 古流型の分解組手
- 少年部用沖縄のリズムで行うリズム空手
- リズム棒術
型を実践に使う為の公式を学ぶ「解裁~かいさい~」
型を修得しさらに実践に活用するためには、その型を解裁という方程式で解かなければなりません。長年の稽古の末に奥義ともいえる解裁を身に着ける事が出来ます。