序 渡口 政吉の志を誇りに思う。 法政大学 文学博士 外間 守善氏のメッセージ

こちらでは、尚禮舘 指導教本に掲載されている「序 渡口 政吉の志を誇りに思う 文学博士 外間 守善氏」の文章を紹介します。

宮城長順先生の空手に対する情熱。渡口先生の事やご本人の空手への情熱が書かれています。
下の方にわかりやすく書き出していますのでどうぞご覧さい。

 

以下上記の資料を読みやすいように書き出し、段落に分けています。

 

 


(出典:http://ankei.jp/yuji/?n=2003)

序 渡口 政吉の志を誇りに思う

文学博士 法政大学教授 外間 守善氏(Wikipediaより)

 

宮城長順先生と剛柔流

空手の鍛練に人一倍研鑽を積まれ、熟達の域に達した宮城長順先生は、自らの攻撃、防御のティー(空手)の基本動作を組み立てる一方、それらのすべてを統合的に整序した「型」を編み出し、その構造的体系のすべてを「剛柔流」と名づけられた。

しかし、「柔よく剛を制する」という精神を剛柔流の奥義として深く心にとどめられた先生の空手道への挑戦は、そこから始まったともいえるのではないだろうか。というのは、先生は、剛柔流というティーの体系をセーンチン(セイユンチン)からスーパーリンペーまで八つの型に納めて世に問い、空手の普及につとめられたものの、それを沖縄だけではなく日本全国、されには世界各地に広めることを念願にしておられた。剛柔流を編み出したその時から先生の発想には、空手そのものの世界的な普及ということが、念頭にあったのだと思う。

 

 

比嘉道場に入門。兄弟子達との出会い。宮城先生に教えを乞う。

昭和13年に比嘉世幸先生の門下生として剛柔流空手に入門した私は、比嘉道場の古参であった渡口政吉さんや福地清幸さん、御女武士(イナグブシ)のメーカーこと真栄城初枝さんなどからサンチンやセーンチンの型で練習にはいったものである。ところが 昭和16年になって私は宮城長順先生の教えを乞うようになった。宮城先生はその頃、那覇市松山の道場で弟子を養成するだけでなく、沖縄県市師範学校、那覇商業高校で空手師範をなされておられたし、今までに作られた型とは別の、新しい型を編み出しておられ、その錬成に腐心しておられた。

 

 

情熱をもって新しい型を創る。

沖縄だけでなく、全国的に普及するための新しく覚えやすい型だといいことであった。しかし、にもかかわらず、沖縄県師範学校における正課としての授業では、今までの型を今までどおり、セーンチンからの練習法で教えておられた。私の記憶では、師範生への新型の指導は昭和17年頃からだったように思う。でも授業のあいまを縫っては、私を相手に普及型撃砕の基本動作を試みておられた。その頃私は、師範学校での先生の代稽古を仰せつかっていたが、先生は、練習し易い新しい普及型を小学校から教えていきたい、そのためにも小学校の先生になる師範生は積極的に普及型を学んでほしい、といい続けておられた。

 

普及型撃砕は型としてすでにできあがっていたが、それでもなお先生は、私を稽古台になさって型の錬成、修正に苦心しておられた。突き、受け、払いの動作を合理的に組み合わせ、新型の完成を図るための試験的練習なんだろうと思っていたのだが、今にして考えると、先生は、普及型よりさらなる発展を目途にして、易しい型から難しい高度な型へという、段階的な型の組み立てに腐心されていたようである。

 

あれから間もなく日本を中心としたアジア全体の戦争局面が緊迫し、沖縄が戦争のための踏み台になっていたため、空手どころではなくなってきた。剛柔流の精神を理念として創案された新型の、全国かつ世界的な普及は、戦争という悲劇的な時流のために、挫折を余儀なくさせられたわけである。空手道を「命」として一途であられた宮城長順先生の無念のほどが察しられる。

 

 

戦後 宮城先生との再会。そして別れ。

1946年の春、戦乱をくぐって生き残っておられた宮城長順先生に再開したには具志川田道場に設立された警察学校の空手の稽古場だった。でも心なしか、普及型に寄せておられた先生のあの烈々とした気迫と情熱は感じられなかった。敗戦直後だったし、虚脱と混乱の中でのことだったので無理からぬことだったのでとは思う。しかし、宮城先生のせっかくの雄志が、実を結べないままでいるのをみるのは、私としてはつらいことだった。

日常的な生活の場でも、空手の稽古場でも、常に泰然自若としておられながら、こと空手の将来のビジョンの話になると、あれほど燃えておあれた先生に、情熱の燃焼のみられなかったのは、実はその頃先生は高血圧調整のための健康管理をしていられたせいだったらしい。あれから数年後、先生は巨星が堕ちるようにその一生を閉じられた。

 

 

兄弟子 渡口師範との再会。

その後、私自身も沖縄を離れて東京に出たし、空手道の縁もまったく途切れてしまっていたので、宮城長順先生の志しておられた普及型の普及という大望がどうなったのか、情報を得ることができなかった。ところが、このたび、剛柔流の私の兄弟子である渡口政吉師範が、普及型撃砕第一・第二・第三、および撃破第一・第二、さらに鶴破という型と分解組手及び基礎組手を創案され、本書にこのような形でまとめられた。

私は、それらの新しい型をつぶさに拝見したわけではない。しかし、私たちの師である宮城長順先生の雄志は、新しい形を得て蘇生したわけである。宮城長順先生が意図なされたような造形がなされ、型として完成しているかどうかはわからないが、几帳面、生真面目な渡口政吉師範のことだから、恩師の志と情熱だけは決して崩していないことと期待している。

しかし、新しい型そのものは、渡口政吉師範の創案として世に問い、空手道を志す多くの方々の批正と合意を得るべきであろう。剛柔流流派の方々はもちろんのこと、他流派であっても、空手道そのものの将来の発展のために、虚心に、渡口政吉師範の志を受けとめていただきたいものである。このたび本書の刊行が、宮城長順先生の志を継ぐ一つの試みであり、空手が全国的に、いや世界的に普及していくための新しい契機になってくれたら、と願わないではおられない。

 

 

剛柔流の普及に託す思い。

私個人の経験ではあるが、オーストラリア、ニュージーランド、フィジー、ハワイなど南太平洋でも剛柔流空手の道場があったり、空手ファンを多くみかかえたし、空手を学ぼうとする熱気が異常なにふくらんで感じられた。アジア地域はもちろんのこと、ヨーロッパやアメリカでも空手熱はほとんど同様なものであるという。空手が全世界的な広がりになる受け皿はできているように思う。

あとは、空手のメッカである沖縄の空手関係者が心を一つにして協力しあい、沖縄を中心にして、全世界への正しい空手の普及につとめることだと思う。そのための空手道普及推進者の一人として、私は私の兄弟子である渡口政吉師範が宮城長順先生の志を正当に継承して研鑽しておられることを誇りに思っている。

 

1990年5月15日記

 

 

渡口先生と外間先生とのオーストラリア体験記 平川 樹高 記

平成元年、師渡口政吉先生とオーストラリアへ同行して指導と演武をしました。

このご縁は、沖縄文学の第一人者故 外間守善先生が渡口先生の弟 弟子だった事に発します。
沖縄随一の舞踊家、古典音楽家を含む舞踊団を編成。その中で尚禮舘空手に選出されました。

毎日の動向沖縄に伝える為に沖縄タイムスの取材班が同行し大掛かりなものでした。

 

 

私たちは、空手の演武をシドニー大学の学会で発表。沖縄の文化を広く紹介する権威あるものでした。

渡口先生から教わったサンチン。

スポットライトに照らされ大勢が見守る中で演武。

先生に締めて頂きました。

 

 

 

投稿日:2019年10月12日 更新日:

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